殖木の諏訪神社に建立された
植木・苗木発祥の地 石碑
植木・苗木発祥の地
苗木のはじまり
田主丸の植木苗木業は、元禄年間(1688-1704)に現在の殖木の一栽培家に始まったとされています。
その当時はまだ植木苗木で生計を立てるようなものではなく、趣味でつくったものを分け与える程度。しかし、戦いのない世の中となり町民の興味が木々や花に向くにつれて素朴な技術にも磨きがかかり、江戸中期には、植木苗木を生業とする農家が現れました。
この頃の有馬藩は21万石といっても実情は火の車。時の藩主有馬則維は、正徳2年(1712)から田畑の検地を事細かに行い、等級をつけ徹底的に年貢を徴収する新課税方式を課しました。度重なる洪水と凶作、厳しい年貢の増額に、ついに享保13年(1728)、国中の農民が集結し享保百姓一揆が勃発。その四年後には全国的な享保の大飢饉がおこります。
蝋の原料となる 櫨(はぜ)の木
農人錦の嚢(ふくろ)
殺伐とした時代にあって、中国から薩摩へ伝わった櫨は、その実が蝋の原料として現金となる有望な作物でした。寛延3年(1750)、有馬藩は財政建て直しのために荒れ地や、曽根(水路わきの堤防でもある道)といった官有地にも櫨の栽培を奨励します。
その同じ年、竹野郡亀王村(現在の田主丸町亀王)大庄屋竹下武兵衛周直は『農人錦の嚢』を世に出しました。「草木数多しといへども、世間財用に便あることいまだ此木より盛なるはなし」と農民に櫨栽培を勧め、子どもの頃からの経験で得た「接ぎ木」などの栽培方法を惜しげもなく記し人々に伝授しました。その栽培は一気に広まり、筑後は櫨の国と言われるまでになっていったのです。
『農人錦の嚢』には周直の飢饉や一揆を二度と味わいたくないという思いがありました。天災と厳しい藩政という人災。農民たちはあえいでいました。植木、苗木はその農民たちが生きていくための副業として、さらに広まっていきます。
名人、達人
やがて先人たちの才能が次々に花開きました。
寛政元年(1789)、現在の殖木に生まれた今村喜左衛門は「苗木の名人」として名高く、またその弟、喜助も「盆栽の名人」として知られ、できあがった盆栽を我が子をになうようにして遠方へと売りに出かけていました。
他にも牡丹の石井半蔵、草場善平、皐月つつじの桜木久蔵、倉富角次など、その技術を磨き子孫へと伝えながら、植木苗木はひとつの生業として成長していきました。
橘苗木の全国シェアは8割
明治13年、竹野村の綾部太一は広島から苗3000本と種子三升を買い入れ、91000本の松苗を育てました。これが山林苗の始まりで、植林事業が国策となると、綾部太一や内山恵太郎(後の内山緑地建設株式会社会長)らが育てた松、杉、檜苗の販路は関西関東にまで一気に広がり、全国の六割の生産を占めるまでになりました。
山林苗やツツジの影で細々と続いていた柑橘苗木栽培の技術も、日の目をみることになります。扇状地の砂礫質の土壌と水はけのよさで、耳納北麓は古くから果樹栽培が盛んでした。空前のブームとなった夏みかんの苗木づくりをきっかけに、本格的な苗木栽培が始まり、新しい品種が苗木業者によって次々と争って栽培されて全国へと送られていきました。現在、田主丸の柑橘苗木の全国シェアは、今や8割を占める一大産業となっています。
観賞樹、山林苗、みかん苗と多くの栽培家の研究と努力によって次々と新しい栽培法を見いだしながら「植木・苗木の田主丸」は300年以上の歴史を刻んでいます。
(参考文献『田主丸の苗木』浮羽苗木研究青年同志会・現福岡苗木研究会)
九州理農研究所
「巨峰開植の地」田主丸
農民の 農民による 農民のための研究所
昭和30年、田主丸の有志によって、農民による農民のための研究機関「九州理農研究所」が誕生しました。所長は越智通重先生。「巨峰」という品種をこの世に生み出した、伊豆の大井上康先生の一番弟子でした。
手づくりの建物に手弁当。それでも毎夜、農業の未来を語り合い、技 術を磨き合った会員たちは、やがて全国でも産地としての成功例がなかった巨峰の栽培を決意します。こうして、昭和32年4月、田主丸で初めて巨峰の苗200本が植え付けられ、その3年後、越智先生の指導と会員たちの熱意によって、見事な実をつけました。
市場から閉め出され
「こげん大粒で、ばさろ美味いぶどうがあるんか」。
口いっぱいに広がるその甘さを一度味わった人々は、感動を胸に次々と栽培に挑み、田主丸は名実ともに巨峰の産地となっていきました。
しかし、待ち受けていたのは、「一民間の学者が開発した品種」と、市場から相手にされぬ厳しい現実でした。