数多い弥生遺跡
弥生文化は筑後川沿岸から
紀元前三世紀頃から三世紀頃までの約600年間を弥生時代と呼びます。この時代には稲作が本格的に行われるようになり、ムラの数も爆発的に増え、クニとしてのまとまりが生まれています。
それらのクニの中には、奴国や邪馬台国のように大陸に使者を送るほどの力をたくわえたものも現れ、歴史の中ではじめてクニとクニとの戦争がおこります。本当の意味での武器が作られ、弥生時代の後期には「倭国大乱」と呼ばれるたくさんのクニをまきこんだ大きな争いが起こりました。
川から山へ
田主丸には数多くの弥生時代の遺跡があり、本格的な弥生文化の定着は筑後川の河岸段丘を中心に始まっています。弥生前期の後半の集落跡である水分遺跡や豊城中ツブロ遺跡、弥生中期中頃の遺跡として秋成・亀王遺跡、船越一ノ上遺跡、西郷天神免遺跡、弥生後期の遺跡として千代久遺跡などがあり、平野部を中心に弥生文化が展開しています。
後期に入ると、中心は山麓へと 動き、竹野三明寺遺跡、益生田寺徳遺跡と発掘事例は少ないものの、有力な集落が形成されていました。
町内で350基の古墳
江戸時代の記録では1053基
弥生時代に続く三世紀の終わりから七世紀代、古墳が数多く築かれた時代を古墳時代といいます。この時代には、近畿地方を中心として成立した大和朝廷の支配が地方に広がり、国としてのまとまりが生まれました。
特に耳納山麓には古墳時代後期に爆発的に群集墳がつくられています。田主丸町で現在までに確認された古墳は消滅部分も含めて350基を数え、江戸時代の終わりに書かれた「寛延記」によれば、現在の町の範囲で1053基の古墳が存在していたとされ、まさに山麓一帯が墓域でした。現在町内には15の古墳群が存在しています。
謎につつまれた大塚古墳
古墳時代後期では九州最大の前方後円墳
嘉永6年(1853)に久留米藩士の矢野一貞が残した「筑後将士軍談」に「山辺街道の南側にあり、当国一の大塚なり」と記されている田主丸大塚古墳。
平成4年からの調査で高度に組まれた葺石や石室の入り口などが確認され、南側斜面上に前方部をのばす大型前方後円墳であることがわかりました。後円部の直径が60メートル、全長103メートルで六世紀の後半に築かれたと推定され、その時期では九州最大の規模を誇ります。しかし、その規模にも関わらず、文献も地名にまつわる氏族の伝承もない謎につつまれた古墳です。
埋葬された人物も、死後もなお筑後平野を眼下に見下ろすことを望んだのでしょう。墳丘の頂上に立てば、今も絶景が広がっています。
ひらばる
桜に囲まれた森部平原古墳群
70基の巨大な群
大塚古墳から150メートルの西にある県指定史跡の森部平原古墳群は、標高200メートルに位置する六世紀後半の古墳時代後期につくられたもので、70基の巨大な群をなします。
直径10メートル前後の小規模な円墳がほとんどで豪族などの権力の象徴というよりは、各集落の家族墓といったものとされています。
平原公園として町内きっての桜の名所として知られ、寄り集まった古墳を桜の花びらが覆う風景は、田主丸の春の風物詩です。
田主丸大塚古墳 、寺徳古墳、西館古墳、中原狐塚古墳を含む田主丸古墳群は国の史跡、平原古墳群は県の史跡に指定されています。